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Cold Open
シーン1 朝のIssueボード
四月十八日。月曜の朝。
オフィスの窓の外で、街路樹は半分ほど葉桜になっていた。桜の花びらが、まだ歩道のへりに、たまに残っている。風が吹くたび、駐車場の隅に、小さな塊で集まっていく。
桜子は、自分の席で、社内のIssueボードを開いていた。
ボードの上には、四つの小さなチケットが並んでいる。
- ヘルプ画面の文言、語尾「〜です」「〜ます」が混在しているので統一
- お問い合わせフォームのプレースホルダー、半角カタカナを直す
- 利用規約ページのリンク切れ (3件)
- ログイン画面のタイポ「パスワード」→「パスワード」(全角混入)どれも一行で済む類のチケットだった。鈴木が、桜子と翔太に「先週の十四件レビューを踏まえて、しばらくは小さいPRを連続で出してみよう」と言って割り振ってくれたものだ。
(一行ずつ、出します)
桜子は、ペットボトルのお茶のキャップを、机に置いた。
画面の隅で、十四件のコメントが付いた、自分のあのプルリクエストのページを、もう一度だけ開いた。Mergeされた紫のラベルと、自分のアイコンが並んでいる。
桜子は小さく息を吐いて、最初のチケットを、自分にアサインした。
Part A
シーン2 二週目の小さなPR
最初のチケットは、ヘルプ画面の文言修正だった。「〜です」「〜ます」の混在を、ページごとに「〜ます」基調にそろえる。
桜子は、まずブランチを切った。第2話の指摘を踏まえて、
$ git switch -c feature/help-tone-mochizukiブランチ名に自分のslugを入れる。コミットメッセージは、docs: で始める。PR本文には、「修正の意図」を一行、わざわざ書く。
docs(help): unify sentence ending to "〜ます" on help pages
ヘルプ画面で「〜です」「〜ます」の混在があったため、
表記揺れガイドラインの "〜ます" 基調にそろえた。桜子は、PRを出す前に、PR本文を、もう一度上から下まで読んだ。
(未来の誰か、宛て)
遥が朝礼の前に、桜子のPRを開いて、コメントを残してくれた。
@yamashita-haruka: 修正OK。
PR本文に意図が一行あるの、いいね。
何故そろえたか、を書いてくれると、レビュアーも判断が早いステータスは、Approved。桜子は、Mergeボタンを押した。紫色のラベルが、二件目に積み上がる。
昼前に、二つ目のチケット、フォームのプレースホルダー修正も、同じ手順で出した。今度は、コメントは付かず、Approved だけが、午後一に付いた。
午後の三時。桜子は、初日のあの真っ白なPCケースを、もう一度、見下ろした。角に、なにも傷はついていない。けれど、画面の中の自分の名前が並んだPRの本数は、ゆっくり、二、三、四、と増えていく。
翔太は、別の席で、もう一段大きい新規機能タスクの設計レビューに入っているようだった。社内wikiに翔太の名前で「ユーザー通知設定の設計案 v0.1」というページが今朝のうちに立っていた。
桜子は、ほんの一瞬、自分のIssueボードと翔太の設計ページを見比べて、それから、自分の四つ目のチケットに戻った。
(今は、ここから)
誰かに言われたわけではない一言を、自分のなかで唱え直した。
シーン3 帰り道の改札で
十九時。桜子は、コンビニ袋をぶら下げて、地下鉄の駅へ向かっていた。
改札の前で、スマホが、ポケットの中で短く震えた。
画面を見ると、母からの着信。仙台の実家。
桜子は、改札を抜けて、駅の外の街灯の下に出てから、折り返した。
「もしもし」
「あ、桜子。出れたの。今、忙しくない?」
母の声は、いつもどおり、少し早口だった。受話器の向こうで、台所の換気扇の音が、ゆるく流れている。
「うん、いま、駅。ちょうど帰り。どうしたの」
「いや、別にね、急ぎじゃないんだけど。お父さんが、また腰、ちょっとやっちゃってさ。庭の物置のドアを動かしたら、って」
「えー、また」
「うん、また。本人は、たいしたことない、って。あんた、東京、寒くない? もう四月も半ばなのに、夜、冷えるって、ニュースで」
「冷えるね。コート、まだ着てる」
「そっか。風邪、ひかないようにね」
短い沈黙のあと、母は、続けた。
「会社、どう?」
桜子は、街灯の下で、半歩だけ立ち止まった。改札を出てくる人たちが、桜子の横を、足早に流れていく。
「うん。先週ね、初めてのプルリクっていうやつを、出したの」
「プル……」
「うん、なんか、自分が書いたコードを、先輩に確認してもらう手続きみたいなの。それで、初めてのときは、コメントが、十四件、つきました」
「あら、十四件も。怒られたの?」
桜子は、思わず、笑ってしまった。
「ううん。怒られた、わけじゃない。最初は、ぜんぶ、ダメ出しに見えたんだけど。先輩が、レビューには五種類あるって教えてくれて、ちゃんと、会話だった、っていう感じ」
「なんだか、難しいわね。よく分からんけど」
「うん。よく分からん、で、いいよ」
「でも、桜子は、十四件、ぜんぶ、読んだんでしょ」
「うん」
「ぜんぶ読んだのは、桜子らしいわね。あの子、昔から、図書館で、本を、最後の解説まで、ぜんぶ読んでたから」
桜子は、言葉に詰まった。
たしかに、小学生のころ、図書館で借りた本の、巻末の作者の解説まで、必ず読んでから返していた。それを、母が、まだ覚えていることが、少しだけ、こそばゆかった。
「お母さん、覚えてたんだ、それ」
「そりゃ、覚えてるわよ、自分の子のことだから」
受話器の向こうで、換気扇の音が、ふっと止まった。
「じゃ、無理しないで。お父さんの腰は、また様子知らせるから。明日、ちゃんと、ご飯食べなさいよ」
「うん。お母さんも」
通話が切れた。桜子は、しばらく、街灯の下で、スマホを耳から離さないままでいた。
Part B
シーン4 部屋の電気と湯気
二十時前。
ワンルームの部屋に帰ると、桜子は、玄関でパンプスを脱いで、まず電気をつけた。蛍光灯が、一拍置いてから、白く灯る。
台所の隅の小さなIHコンロで、お湯を沸かす。コンビニで買った、おにぎり一つと、カップ味噌汁。本当は、自分でちゃんと作るべきだ、と思う。けれど、今夜は、少しだけ、それを、やめておいた。
お湯が沸いたところで、味噌汁の蓋を開けて、注ぐ。湯気が、レンジフードの下で、ぼうっと立ち上がる。
机の上には、ノートPCがある。けれど、桜子は、それを今日は、開かないことに決めた。
代わりに、メモ帳を取り出して、机のまんなかに、ぽつんと置いた。
表紙の、半分はがれかけた猫のシール。第2話の夜、駅前のカフェで開いた、あのメモ帳。
桜子は、おにぎりの包装をはがしながら、片手で、ページを、ぱらぱらとめくった。
2022/04/02 新人日記
- レビューコメントには五種類ある
指摘 / 質問 / 提案 / 共有 / 称賛
- レビューは否定じゃない、会話
- コミットメッセージは未来の誰かへの手紙
- 一行のコードに14件、ぜんぶ読み切った
- 無言で直さない二週間前の自分が、ペンで書いた文字が、そこにあった。
桜子は、おにぎりを一口かじってから、ペンを取った。新しいページを開いて、上のほうに、日付を書く。
2022/04/18 新人日記書きながら、自分のなかで、メモの形を、少しずつ整理していく。
日付。今日起きたこと。覚えたこと。つかえているところ。明日の最初の一手。
箇条書きで、五行か、六行。それ以上は、書かない。書けば書くほど、後から読み返したときに、どこを読めばいいか分からなくなる。
2022/04/18 新人日記
- 起きたこと:
小さいPRを2本マージ。コメントなしのものが1本あった
- 覚えたこと:
PR本文に「修正の意図」を一行入れると、レビュアーが判断しやすい
- つかえているところ:
翔太の設計案ページが、自分にはまだ書けない種類の文章だった
- 明日の最初の一手:
ヘルプ画面のリンク切れ修正、1件目から着手ペン先を止めて、桜子は、そのページを少し離して見た。
たった、五行だ。
でも、五行が、今日の自分の場所を、ぴたりと指していた。
味噌汁の湯気が、蛍光灯の下で、まだ細く立ち上っている。
シーン5 カフェで書く新人日記
翌朝。
桜子は、いつもより十五分早く家を出て、駅前のカフェに寄った。
第2話の、あの、苦いコーヒーを出す店。窓際の、二人がけの席が、今朝も空いていた。
桜子は、カフェオレを頼んで、メモ帳を開いた。
昨夜、家で書いたページの、隣のページに、もう一度、日付を書く。
2022/04/19 朝今度は、ふだんの新人日記とは別の、もう少し小さい字で、桜子は、自分との約束を、書きとめていった。
- 朝5分だけ、カフェか、出社前に、メモ帳を開く
- 書く順番:
日付 / 起きたこと / 覚えたこと / つかえているところ /
明日の最初の一手
- 5行を超えそうになったら、5行に減らす
- 半年後の自分が読んで、何が起きたか分かる粒度で書く
- 無理な日は、書かない。書けない、と書く日があってもいい書き終えて、桜子は、カフェオレを、ひとくち、すすった。
ページの上に並んだ、自分の手書き文字。鉛筆ではなく、ボールペン。あえて、消せないペンで書いた。
(半年後、これを読み返したい)
自分への、ちょっとした賭けだった。
窓の外を、出社途中の人たちが、歩いていた。スーツの人。リュックの人。傘を畳みながら歩く人。みんな、それぞれの会社で、それぞれの十四件と、それぞれの小さなPRを、抱えているはずだった。
桜子は、メモ帳を閉じて、鞄に戻した。
桜色のキーホルダーが、鞄の持ち手で、かすかに揺れた。
Part C
シーン6 オフィスでの遥の一言
九時すぎ。オフィス。
桜子は、自分の机にメモ帳を置いて、ヘルプ画面のリンク切れ修正に取りかかっていた。
カップを取りに通路を歩いていた遥が、桜子の机のそばで、ふっと、足を止めた。
「桜子さん、それ、表紙のシール、半分とれかけてるよね」
桜子は、振り返った。
「あ、はい。大学のとき、生協で買ったやつで、そのまま」
「猫」
「はい、猫です」
遥は、紙コップ越しに、ほんの少しだけ、目を細めた。
「桜子さん、毎朝、書いてる?」
「あ、はい。今朝から、五分だけ、駅前のカフェで」
「五分」
「それ以上書くと、自分が、書くこと、それ自体に飲まれる気がしたので」
遥は、桜子の机に置かれたメモ帳を、覗き込もうとはしなかった。覗き込まないことが、桜子には、少しだけ、嬉しかった。
「五分でも、続けば、半年後、すごい資料になる」
遥は、それだけ言って、自分の席のほうへ、紙コップを持ったまま、歩いていった。
桜子は、しばらく、自分のメモ帳の表紙の、はがれかけた猫を、指の先で、そっと押さえた。シールは、半分取れかけたまま、まだ、表紙にしがみついていた。
Ending
シーン7 退勤後、線路沿いの夕暮れ
十九時半。
退勤して、駅へ向かう線路沿いの道。
四月の街路樹は、もう、ほとんどが葉桜だった。風が吹くたび、まだ落ちきっていない数枚の花びらが、舗装の上を、軽く滑っていく。
桜子は、鞄を肩にかけ直した。中で、メモ帳が、わずかに重さを増した気がした。
二週間前、初日のあの帰り道、桜子は、駅まで、ほとんど何も書けない自分を抱えて歩いた。一行のコード。十四件のコメント。それしか、まだ、桜子の側には、なかった。
二週間で、変わったこと。
書けたコードは、まだ、たいしたものじゃない。タイポと、文言と、リンク切れ。それでも、四本のPRが、紫色のラベルで並んでいる。
メモ帳には、日付が、五日分。
母には、十四件のことを、ほんの少しだけ、笑える調子で話せた。
遥に、「五分でも、続けば」と言われた。
桜子は、線路の向こうの、夕焼けが、ビルの輪郭を、橙色にゆっくり押し出していくのを、しばらく見ていた。
(まだ、自分のコードを「すごい」と言われたことは、ない)
でも、今日、自分のメモ帳を、「続けば」と言われた。
それは、コードと、少しだけ、違う種類の手応えだった。書く側の桜子を、書き続ける側の桜子に、して、もらえた、というか。
桜子は、改札の前で立ち止まり、鞄から、メモ帳を、ほんの一度だけ、持ち上げてみた。
手のひらに、ちゃんと、重さがあった。
明日も、駅前のカフェに寄って、五分だけ、書こうと思った。
書けない日が来たら、「書けない」と書こう、と思った。
その日の夜風は、四月にしては、確かに、少し冷えた。